玉泉寺の沿革


薬師如来の像は向かって右に「日光」、左に「月光」の両菩薩が侍する三尊形式も多い。
釈迦如来は「普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)」が、阿弥陀如来は「観音・勢至(せいし)」が、東大寺の大仏(毘盧遮那仏/るりしゃなぶつ)は「如意輸観音(にょいりんかんのん)・「虚空蔵(こくうぞう)」と、三尊仏の場合、向かって右の脇侍菩薩は「慈悲」の、左は「智慧」のという約束ごとがあるようだ。
日光はあたたかい光の慈悲、月光はつめたい光の冷静な智慧と覚えておこう。
情と智のバランスが、本尊を支えているのであり、しかもそれは仏像の前で祈るわれわれの右脳側に慈悲の、左脳側に智慧の働きとなっている。


 薬師如来の世界

薬師如来の世界は東方で、西方の阿弥陀如来の世界とこれも対極である。法隆寺金堂に安置された三如来は東に薬師、中央に釈迦、・西に阿弥陀の順である。


『瑠璃の浄土は潔し月の光はさやかにて像法転ずる末の世に遍く(あまねく)照らせば底も無し』


太陽が毎日出発する東にある、新しい生命を産み出す大きな力は、薬石の結晶した世界にあって、万の病という現世の苦悩を癒し克服するための薬を与えて、生命を出発させる。その薬のことを自然治癒力と今では呼んでいる。そうでなければ、少しの傷でも病気でも自然に治るはずはない。
薬師如来のお姿は坐像で右手を挙げ、掌を前に指は上にした"施無畏(せむい)〃、の印、左手は下に向けて掌に薬壼(やっこ)をのせている。指をのばし下に向けたこの手は、"与願(よがん)〃の印という。薬壼を持ったこの姿は「薬を与え、畏れや苦悩を無くす」となる。

奈良時代以降多くの薬師如来像が寺の本尊として祀られるが、その世界を「浄瑠璃(じょうるり)浄土」という。
阿弥陀如来のゆたかで華やかな極楽浄土と、それは対極の世界である。薬石の結晶でもある瑠璃は、音も濁りもない澄みきった青色の宝石の世界である、そこにさやかに照り映える月の光、その輝きがこの現世をひろく深く清浄にしてくれるという、美しく幻想的なうたである。

生命は両親という二つの生命から誕生した。両親の生命は祖父母という四つの生命があって出現した。四つの生命は八つの、八つは十六のと、二倍二倍に果てしなく拡がっていく。そしてこの地球に生命が誕生したところまで繋がっているはずで、もし途中で断絶があれば、今の自分の存在はない。そんな広大無辺の過去を基に、つねに新しい、しかも同じものは滅多にない、一つ一つがかけがえのない生命を次々と生み出し、送り出す大自然の摂理みたいな力そのものこそ、東方薬師瑠璃光仏なのだと考えれば、三世の三仏の配置も、東西の意味も、その理屈がすっきりする。




玉泉寺の沿革(天正
12年)1584年小牧長久手の戦いが行われた年

花庵吉存大和尚の開基により堂宇建立。しかしその後長く住職不在にて中原の人々により細々と守られて、元禄12年に徳川幕府の<寺院法度>に基づき中島の昌林寺の末寺となり、明治10年二世探山真牛により法地開闢し、明治14年には境内に地蔵堂を建立。明治39年民家を移築し三世正戒真宗により現在の墓地に伽藍を再建。

大正13年に放火により伽藍を焼失。昭和20年の空襲にて墓地が焼夷弾により破損。

昭和28年五世洪岳泰邦により現在の地に伽藍を再建し昭和58年、六世大巖宗明が檀信徒会館、庫裏を新築し現在に至る。


 

「仙人掌」は今日では一般に観葉植物のサボテンの宛字に使われているが、ここの仙人掌はむろんそれではない。仙人が両掌をもって盤を捧持している形に作り、甘露を受けるのに用いる杯盤のことである。
古代の中国では不老不死を願う神仙思想とその術とが喜ばれ、その一つとして「仙人掌という杯盤で、雲上の玉泉から湧き出る清浄な甘露を受け、この甘露で玉の粉末を練り、これを服用すると齢が延び不老長寿が得られる」という仙術が信ぜられていた。この「玉泉 寿を延ぶ仙人掌」とは、この消息を表現したものである。