「行じがたきを行ず(正法眼蔵随記)」  

「誰人(たれびと)か初めより道心ある。
只かくの如く発し難きを発し、行じがたきを行ずれば、自然(じねん)に増進するなり。
人々(にんにん)皆な仏性(ぶっしょう)あり。徒(いた)づらに卑下すること莫(なか)れ。」


この十年を振り返ってみますと自我の確立とか個性の尊重と言い、自己主張をする時代です。
その反面、主張はするけれども責任は果たさないようにも見えます。
都合のよいところは自分を主張し、都合が悪くなれば自己責任を回避するのです。
学校が悪い、組織が悪い、社会が悪いと、他者に責任を押しつけるのです。
諸々の悪を社会のせいにする風潮は、実は今に始まったことではありません。
平安時代末から鎌倉時代にかけて、末法思想が世間を風靡し、人の心を不安におとしいれました。
末法の世の人間は劣っているから、悟りを得ることができないのはもちろんのこと、
修行する力さえもなくなったと考えられていました。それが無力感と絶望感をつのらせたのです。
社会が悪いから自分もできない。
みんながしないから自分もしない。
逆にいえば、社会が変われば自分も変わる。
みんながするなら自分もやろう。
こんな考え方は、どこか末法に通ずるような気がします。
工夫する方法は必ずあります。
社会が悪いと言う前に、自分のなすべきことを果たしているかどうかを考えてみましょう。
自分ひとりの力は小さいかもしれませんが、尊い力を持っているのです。
ひとりで始めるのは勇気がいります。
すぐに効果が現れることはないかもしれません。
しかしながら、自らを励まし、行いがたきことであっても、
自分のなすべきことを続けて行っていると、何かが少し変わってきます。
誰もはじめは初心者です。
積み重ねていくうちに、道理が分かってくるのです。
ひとりひとりみな仏さまとしての優れた素質を持っているのです。
むやみに卑下することなく笑顔でまずは一歩をすすめてみませんか。


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