「喫茶去(きっさこ)」  

禅のことばに、「喫茶去(きっさこ)」がある。
中国、唐代の禅僧の趙州のところに雲水が訪ねて来る。
すると、趙州が問う。
「前にここに来られたことがおありかな?」
雲水の答えは、「ある」「ない」とまちまちだ。
ところがいずれにしても趙州の言うことはきまっている。
「まあ、お茶でも召し上がれ(喫茶去)」

禅の公案はむずかしい。
「喫茶去」も禅の公案であって、難解である。
しかし、趙州の言いたいことは、禅の修行というものは、
ことさらに奇異なことをするわけではない。
お茶を飲むという日常的な行為のうちに禅があり、それが禅でなければならない・・・といったことだと思う。

お茶を飲むときは、ただひたすらにお茶を飲む。
わたしたちは、まずはそのことからはじめるべきだ。
それが禅であり、仏教である。「喫茶去」の公案は、
そのような意味であろう。

過労死が問題になっている現在、あわてずゆっくりと食事やお茶を飲むように心がけたい。



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