「夏が来れば思い出す」  



目に見えるものも、
見えないものも、
遠くに住むものも、
近くに住むものも、
すでに生まれたものも、
これから生まれるものも、
一切の生きとし生けるものに幸いあれ。

「スッタニパータ」第一四七(中村元訳)




お釈迦さまは教えられました。「慈悲とは、このような願いを持つことです」と。
きっとご自身も、このように清々しく、広い心をお持ちだったに違いありません。
お釈迦さまの教えを頂く私たちも、心がけたいことですね。

さて、今年もお盆の時季を迎えます。
皆さんも今ごろ、そのための準備をされているのではないでしょうか?
子供の頃の私も疑問に思いました。
毎年お盆の前には「五色旗(ごしきばた)」というものをお配りします。
この「五色旗」を精霊棚(しょうりょうだな)に飾っておきます。

なぜ、「五色旗」を立てるのでしょうか? 子どものころの私も疑問に思いました。
そこで大人に訊いたところ、こんな答えが返ってきました。
「ご先祖さんが帰って来なさる時にナ、目印にするためや」
それを聞いた私は、「なるほど、これだけキレイなら良い目印になるよなあ」と納得した思い出があります。
しかし、そんな私も年を重ねると、今度は「お盆の習わしに意味なんてあるのかなあ」などと思うようになりました。

大人になって知恵が付くと人間誰しもこんな考え方をするようになるものですよね。
ところが、よくよく考えてみると、今になって気付いたのです。
お盆とは、最初に述べた「慈悲の心」をカタチとして表すために、毎年営んでいる行事なのではないでしょうか。

きっと昔から、誰もが考えてきたのです。

「亡くなった人のために何かしてあげたい」

「ご先祖さまのために、何かできることはないだろうか?」
代々、私たちはそのように願い、ご供養の仕方を色々と工夫してきました。
その結果、今では様々なお盆の風習が伝わっている訳です。

例えば、ナスやキュウリで牛や馬を作ることについて見てみましょう。
「ただの迷信だ」と言ってしまえばそれまでですが、こういうカタチで表された昔の人の気持ちに、
私は感じ入るものがあります。
きっと、最初にキュウリで馬を作った人は、「これに乗って、なるべく早く戻ってきて欲しいなあ」と考えたのでしょう。

そこで、足の速い馬を夏野菜のキュウリで作ったのです。
同様に、ナスの牛は「お盆が明けたら、ゆっくり見物でもしながら帰って欲しいなあ」
という気持ちで作ったに違いありません。

迎え火や五色旗についても同じです。「あの世から帰って来るには、何か目立つ目印があった万が良いんじゃないかな?」
と考えた人がいたのでしょう。これなど、なかなか心憎い演出だと思いませんか?

私たち現代人の目から見ると、お盆の風習は時として不条理にさえ思えることがあります。
ですが、それらにはすべて、「目に見えないもの」や「遠くに住むもの」の幸せ、すなわち、亡くなった方やご先祖さまの幸せを願う心が込められているのです。
お盆を機会に「慈悲の心」をもう一度思い起こそうではありませんか。


平成22年6月1日発行 「曹洞宗宗務庁刊」


閉じる 三仏忌物語メニュー 玉泉寺トップへ