「4月8日 降誕会〜花まつり〜」
釈尊の誕生日については様々な説がありますが、曹洞宗では古来4月8日ということで定着しています。釈尊の父親は釈迦族の国王、浄飯王(じょうぼんおう、シュッドーダナ)で、母親は摩耶(まや、マーヤー)夫人、つまり釈尊は王子として誕生したことになります。

道元禅師(1200〜1253)は『永平広録』の中で、釈尊の誕生を3000年ほど前のこととしておられます。すると紀元前1750〜1800年頃の誕生ということになりますが、これはちょっと勘違いされたか、あるいは何かの書き間違いだろうと思います。通常、釈尊は紀元前4〜5世紀、せいぜい紀元前6世紀の人とされています。

それはそうと、釈尊ほどの偉人が凡人と同じ生まれ方をする筈がないという思いが強かったのでしょう、スグにあれこれと誕生時のエピソードが語られ、それが経典に残されています。

経典のエピソードを総合しますと、夫人がルンビニ園という場所を散歩していて、そこにあった大樹の鮮やかな花に右手を伸ばした瞬間、何と右の脇から徐々に釈尊が生まれ出て来たといいます。そしてその時、大樹の下に茎が7つもある巨大な蓮華が花開き、釈尊は調度その花の上に生まれ落ちたとされます。

それだけでも結構衝撃的な話なのですが、さらに釈尊は独力で立ち上がって十方に7歩進み、周囲を見回して、右手で天を、左手で地を指さし「天上天下唯我独尊」と言ったという話、この話は結構有名ですから、どこかで聞いたこともあるかと思います。

その有名な台詞の後、四天王が釈尊を持ち上げて宝石の台上に運ぶと、帝釈天と大梵天が左右に付き、上空から龍の兄弟が温水と冷水を釈尊に注いだといいます。同時に、天人達が美しい音楽を奏でて讃歌を歌い、匂いの良いお香を焚き、たくさんの花を降らせたといいます。

冷静に考えると、釈尊誕生を祝う気持ちが話を随分と大きくしたものだとの感もありますが、逆にこうでもしなければ収まりがつかなかった程の篤い信仰を集めた釈尊というお方、やはりタダ者ではなかったことが窺えます。

さて、有名な「天上天下唯我独尊」という言葉、全宇宙で私だけが偉い、というような意味ですから、現代日本人の感覚ですと、これは傲慢だなと思ってしまうかも知れません。しかし釈尊の眼には、この世界がどう見えたのでしょうか。少し難しい話になるかも知れませんが、ちょっと考えてみましょう。

普通の人間は、あれこれと物事を峻別して生きています。けれど物事には必ず原因と条件があります。ご先祖様ないし両親が存在してなければ必然的に自分も存在し得ないように、あらゆる物事も、何らかの他の物事に依らなければ存在し得ないことを意味します。

それなのに、人間はどうしても個々を切り出して峻別し分析しないと安心できないのですね。その峻別・分析の最先端が科学とか学問研究ということになるのかも知れません。でも真実は最初から「切り分け不可」なのです。すると、真実を知る釈尊が「唯我独尊」と言う時には、実は、全宇宙のすべての物事が尊うべき素晴らしい存在だと言ったのだ、という解釈が成立します。

また一方で、この世界、自分を取り巻くありとあらゆる物事は、行き着くところ自分だけの世界なのであって、自分と全く同じ世界に生きている人など存在しないのですね。同じ環境で育ったつもりでも兄弟で違いが出るのは、それぞれの世界が実は別々なわけです。感性も違えば、立場も異なる、それぞれが自分自身の世界で格闘して生きているわけです。

つまり、全世界は実は自分自身そのものでしかなく、従って釈尊の「唯我独尊」という言葉は、あらゆる物事が釈尊自身であること、すべてが仏であることを端的に示した言葉ということになります。

4月8日には、禅宗では昔から釈尊の誕生に因んだ法話が説かれてきました。格式張って言えば降誕会(ごうたんえ)ですが、上述の唯我独尊の解釈も、降誕会の法話に織り込まれてきたものを多少現代的に説明したものです。そういう意味では禅的解釈といえるのかも知れません。

また、兄弟龍のエピソードになぞらえて、誕生時のお姿の仏像に甘茶を注ぎ、釈尊の誕生を祝うとともに感謝の念を新たにする風習も生まれました。これを浴仏(よくぶつ)とか灌仏(かんぶつ)と言っています。何故甘茶なのかというと、龍が注いだのが天界の水、仏教用語で「甘露(かんろ)」というところから代用されたものと想像されます。

けれども現代の日本では、悲しいかなキリストに比して釈尊の誕生日はちょっと忘れられ勝ちです。なるほど降誕会ではとっつき難いのかも知れません。そこで今は、天人が釈尊に降らせた花に因んで「花まつり」という親しみやすい名称が用いられています。

4月8日は年度の頭でもありますから、子供たちの新しい出発が釈尊の誕生のように素晴らしいものでありますように、という意味合いも込め、機会があれば近くの御寺院にお子様を連れて参拝してみては如何でしょうか。もっともお子様に甘茶を降りかけるわけにはいきませんから、そこは一つ、飲ませてあげて下さい。

難しい思想的なことはともかく、大雑把にでも釈尊誕生時のエピソードを知っていれば、かける甘茶も飲む甘茶も、少しだけ味わいが深くなるかも知れません。